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ファイト・クラブ


1999年  アメリカ  139分

監督
デヴィッド・フィンチャー

出演
エドワード・ノートン
ブラッド・ピット
ジャレッド・レト
ヘレナ・ボナム=カーター

   Story
 『セブン』のデイビッド・フィンチャー監督が世紀末的空気の中で描いたバイオレンス&サイコ・ミステリー。

 大手自動車メーカーにつとめるジャック(エドワード・ノートン)は、最近、深刻な不眠症に悩まされ、 重い病気を抱える人たちの互助グループに通いはじめる。そしてマーラ(ヘレナ・ボナム=カーター)という女に出会う。

 ある時、ジャックは出張先の飛行機で、隣席に座ったタイラー(ブラッド・ピット)という男と知り合う。

 帰宅すると、彼の部屋はガス爆発で粉々になっており、行き場所がなくなったジャックは、廃墟のようなタイラーの家に転がり込む。

 同居の条件としてタイラーが出したのは、「力いっぱい (彼を) 殴れ」というものだった。
 深夜の駐車場で真剣に殴り合う2人に次第に見物人が増え、タイラーはついに「ファイトクラブ」の設立を宣言する・・・。


   Review
 公開当時話題になり興味はあったけれど、男たちが殴り合う、というコンセプトに拒否反応があって、今まで見ずにきた。 『アメリカン・ヒストリーX』(98) で狂信的なネオ・ナチを演じたエドワード・ノートンが凄く怖かったのが根底にある。
 本作では身体が細くて、殴り合うのが痛々しいくらい。その分、ブラッド・ピットが筋骨隆々で怖い。

 さて・・・、強度不眠症のジャックは、医者に「世の中にはもっと大きな苦しみを持ったものがいる」といわれて、重い病気を抱えた患者の互助グループに参加しようと思う。
 自分はこんなに苦しい、それ以上の苦しみってどんななんだ、と思ったのだろうか。不謹慎といえばいえるけど、それだけ切羽つまっていたともいえる。

 そこではメンバーがパートナーを選び、互いに心からの苦しみを吐露する。
 ジャックは相手が語りながら泣くのを見て、自分も思わず泣いてしまう。そして思いがけないカタルシスを得る。


 泣くというのは一定の心の浄化作用を持っているのだろう、その夜ぐっすり眠ることが出来たジャックは、味をしめて、次々といろんな病気の互助グループに参加する。

 病気ではないのにそのフリをしているのだから、メンバーを欺いている訳で、罪悪感がある。それでも参加せずにはいられない。 いってみれば “互助グループ依存症”、彼の心が病んでいる証といえる。
 それでもひと時の安らぎは得ることができていたのに、マーラと出会ったためにそれが崩れてしまう。

 彼女も病気ではないのにグループに参加するいわば互助グループ依存症者だ。あちこちでジャックと顔が会う。
 しかしジャックと違うのは、彼女はつねに冷ややかな観察者であることだ。それがジャックに自分の偽善性を自覚させ、泣くという行為に無意識のストップがかかる。

 こうして彼の不眠症が再発する。
 しかし彼女はジャックとは違って、メンバーを偽ってグループに参加することに罪悪感はないらしい。 扮するヘレナ・ボナム=カーターの見るからに病的な風貌が現代の病理をそのまま具現化しているかのよう。

 激しいセックスをしても (ドッタンバッタンあまりに賑やかでここだけは笑ってしまったけど) 、心は虚ろなまま。何も求めず、満たされることもない。 あるのはただ、恐ろしいまでの空虚。

 マーラとはいったい何者なんだろう。 ジャックに酷似しているところと正反対のところのある合せ鏡のようなマーラは、ひょっとするとジャックの分身 (の1つ) なのだろうか、と妄想したりして・・・。

 そう思うと2人が手を取り合って爆破テロで崩壊するビルを眺めるラストも、さまざまな意味が感じられる。

 映画にはよく、男同士が殴り合って互いの友情を確かめ合うシーンが出てくるけれど、本作の殴り合いにはそうした爽快感はない。ただひたすらむごたらしいだけ。 リストカットする人は傷の痛みで「生」の実感を得るという。それに近い感じなのだろうか。

 タイラーはジャックの手の甲を薬品で焼き、「痛みから逃げるな」という。 けれどもそれは、「身体の痛み」から得られる「生の実感」に向き合うのではなく、たんに己の弱さを麻痺させているだけなのではないだろうか・・・。

 消費社会、物質社会に警鐘を鳴らしつつ、現代人の心の病理をえぐった映画という印象で、ラストのどんでん返しも含めて着眼点は面白い。 ただ全体に暗く陰惨な印象がつきまとうのに参った。もう少しストーリー性のふくらみと明るい映像がほしかった。
  【◎△×】6

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