Story ノワール作家ジム・トンプスンの犯罪小説「おれの中の殺し屋」を鬼才マイケル・ウィンターボトム監督が映画化したクライム・ドラマ。 好青年と評判の田舎町の保安官助手がふとしたことから内なる殺人衝動を目覚めさせ、自己 崩壊していくさまを描いている。 1950年代の西テキサス。 田舎町セントラルシティで保安官助手として働くルー・フォード(ケイシー・アフレック)は、住民から頼られる好青年だ。 幼なじみの教師エイミー・スタントン(ケイト・ハドソン)とは気ままな逢瀬を重ねている。 ある日、ルーは保安官ボブ(トム・バウアー)の指示で、娼婦ジョイス(ジェシカ・アルバ)を町から立ち退かせるために、彼女の家に赴く。 これがきっかけでジョイスと情欲に溺れるようになったルーは、 ジョイスが持ちかけた町の有力者チェスター・コンウェイ(ネッド・ビーティ)の息子エルマー殺しを実行する。 ジョイスに容疑が向くよう周到な現場工作をしたルーに検事ハワード(サイモン・ベイカー)は疑いの目を向けるが、ルーはさらなる殺人を重ねていく・・・。 Review 少し気怠いような主人公のモノローグで映画は始まる。主人公の内面に沿いながら話が進むのかな、と思いきや、さにあらず、彼が何を考えているのかさっぱり分からない。 モノローグは彼の内面を語っているのではなく、目に写っていること、観察していることを述べているだけなのだ。そこに何ともいえぬ冷たさが漂う。 町の人は一見愛想のよいルーを好青年と思っているけれど、彼の穏やかさは本当は “心が空っぽ” であることの表われなんじゃないだろうか・・・。 おそらくルーは子供の頃から人の目に映る (いわゆる “いい子” の) 自分と、自分自身が感じる “自分” が違うこと を知っていたと思う。 ただ、彼はそのことに悩んだり苦しんだりはしなかった・・・、普通ならそうした時に生じる葛藤が、彼にはない・・・。 私が本作を見ていてルーに感じた気味悪さはまさにその点にある。 これは記憶に新しい2017年の座間九遺体事件に感じた不気味さに似ている。 こうした事件が起きた時、私たちは事件の背景や動機を知りたいと思う。「なぜ」を解き明かし、それによって「事件」を理解しようとする。 こんなことは2度と起きてはならない、そのために、と思う訳だけれど、本音はもっと深いところにある。一言でいえば “不安” だ。 人間の根源に潜む何か得体の知れないものに対する不安・・・。 事件の動機を解明し理解することで、その不安を鎮めようとするのだと思う。 ルーは子供時代、父親や養子の兄にまつわるトラウマを体験しているようだ。 殺人衝動の遠因をそこに求めて因果関係が説明されるなら話は分かりやすいけれど、そもそもこれが現実に起こったことなのかルーの妄想が生んだ記憶なのか、 それ自体がはっきりしない。 理由も因果関係も分からない殺人・・・、最近こうした事件が多いだけに、見ていて絵空事と思えないリアルさがある。 この映画に感じる居心地の悪さは、こうした現代に生きる私たちの不安を表わしているのかもしれない。 ジェシカ・アルバという女優を私は本作ではじめて見たけれど、娼婦を演じるには清潔すぎるかな・・・。 むしろ学校の先生という設定のルーの恋人のほうが似つかわしいかも。 ケイト・ハドソンがいつの間にかすっかりおばさんっぽくなっているのにびっくりした。ベッドシーンばかりなので彼女のほうが娼婦っぽく見えたりする。 もっとふつうの暮し (ルーと一緒に食事をしたり、町で子供たちに声をかけたり) のシーンがあってもよかったと思う。 あるいはジェシカ・アルバと役柄を替えてもよかったかも。 ホームレスが滅多に人が通りそうもない郊外の娼婦の家で起こったことの目撃者になぜなれたのか、 終盤ルーが家中にガソリンを撒いているのに、踏み込んだ検事たちはなぜ匂いに気づかなかったのか、などいろいろ気になる部分もあるけれど、 ケイシーの抑制された演技は理由なき殺人者を造形してなかなかだ。 周到に殺人を準備し、矛盾点を衝かれてもいささかも動揺せず、ちょっとトーンの高いしゃがれ声が生気のなさを巧みに表して、 生まれてこのかた “生” を実感したことがないという感じがよく出ていたと思う。 【◎○△×】6 |