Story ギリアン・フリンの大ベストセラー小説の映画化。 一見、幸せそうに見える夫婦の秘密が徐々に暴かれていくさまを、鬼才デヴィッド・フィンチャー監督がサスペン スフルに描く。 ニューヨークの仕事がクビになり、ニック(ベン・アフレック)とエイミー(ロザムンド・パイク)はアメリカ中西部、ミズーリ州の田舎町に引っ越してくる。 結婚5周年を迎えた日、突然エイミーが行方不明になってしまう。 家は荒らされ、キッチンにはエイミーの大量の血痕もみつかった。 単なる失踪なのか、あるいは誘拐か、はたまた殺人か・・・。 美しい若妻の失踪事件は人々の注目を集め、やがてアリバイが曖昧なニックに疑惑の眼が向けられていく・・・。 Review 映画を見終わって夫と顔を見合わせ、期せずして「あー、もうお腹いっぱい」と同時にいってしまった。それは「はぁー、怖かった」の意味でもある。 なにが? もちろんこれはもう、妻エイミー以外にはあり得ない。 彼女の恐ろしさ (とくにラストの、「これが結婚というものよ」の一言) が骨身にズンと響いて、「あー、コワ・・・、お腹いっぱい」になってしまったのだ。 エイミーの頭の良さ、計算し尽くされた周到さ、実行に移す時の用心深さ、世間 (FBI捜査官すら) を欺く演技力、・・・とうていニックの太刀打ちできるものではない。 むしろ彼女がなぜニックのような平凡な男と結婚する気になったのか、それが不思議に思えてくるほどだ。 映画は、ニックが妻エイミーからの結婚記念日のプレゼントについて、双子の妹マーゴ(キャリー・クーン)と話をする場面から始まる。 1年目は紙婚式だからノート、4年目は花婚式で庭の枯れた花 (ここで私は「?」と思う)、今年は5年目の木婚式だから・・・。 わー、いちいち細かいな、とちょっと鬱陶しくなったりして・・・。 謎解きの宝探し風になっているらしく、ニックは “人生ゲーム” と皮肉ったりしている。 気のせいかどこか浮かない顔、・・・どころか結婚記念日というのに「最悪」なんていってる。 後で考えると、こうしたことの一つ一つが伏線になっていたんだな、と気づくけど、ストーリーはすぐに2人が出会い恋に落ちた頃に溯るので、 ついこの時に感じた違和感を忘れてしまう。 こうしたストーリーの中に幾重にも埋め込まれたこうした伏線 (どんでん返し) の巧みさが本作の特徴だ。 映画は概ねニックの視点で進むので、エイミーの失踪に戸惑い、いつの間にか妻殺しの疑惑をかけられ、 最後はエイミーの仕掛けた罠にまんまとはまって、“結婚” という牢獄に閉じ込められてしまう恐ろしさに、身震いする。 人が好くて、時々は間抜けて見えたりもするニックを、ベン・アフレックが上手く見せている。 しかし出色は、妻エイミーを演じたロザムンド・パイクだ。 出会った頃の彼女は低く囁くような喋りかたのミステリアスな美女だ。ニックが心を奪われたのは無理もない。 ところが後半は、顔も態度もだらしなく、まるで中年女のようだ。彼女の本性が表われたかのようにふてぶてしい。 剥いても剥いても芯の見えないキャラクターを巧みに演じている。 エイミーは今風にいえばサイコパスなのかと思う。 子供の頃から母の書く人気児童文学「完璧なるエイミー」のモデルとして注目を浴び続け、 理想化された主人公と現実の自分との乖離を、自分を偽ることで整合させてきたのだろう。 問題は、彼女が引き裂かれた自己を自覚し苦しむことを無意識のうちに拒否し、“仮想のエイミー” に同化した自分に周囲も合わせるのが当然、 と思っていたことにあるのではないか・・・、そこに彼女の歪みがある気がする。 エイミーの両親の妙に冷え冷えした空気も気になる。 人気作家の母(リサ・ベインズ)、妻に遠慮したように存在感のない父、 ・・・夫婦の支配権は妻が持ち、そうした息詰まるような家庭の中でエイミーは「結婚とはそうしたもの」と思い、自分も同じようにしようとしたのかもしれない。 それがラストの「これが結婚というものよ」という言葉に表れてると思ったら、あらためてゾッとしたりして・・・。 【◎○△×】7 |