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マドモアゼル


1966年  イギリス/フランス  102分

監督
トニー・リチャードソン

出演
ジャンヌ・モロー
エットレ・マンニ
キース・スキナー
ウンベルト・オルシーニ
ジョルジェ・ドゥーキンク
ガブリエル・ゴバ

   Story
 フランスの異色作家ジャン・ジュネが映画のために初書下ろししたシナリオをもとに、『雨のしのび逢い』のマル グリット・デュラスの脚本で、『トム・ジョーンズの華麗な冒険』のトニー・リチャードソン監督が映画化した。

 フランス中央部の森林地帯にある小さな村。マドモアゼル(ジャンヌ・モロー)と呼ばれる小学校の女教師が村人たちの尊敬を集めていた。

 この村にイタリアから出稼ぎの木樵たちが来てからというもの、原因不明の火事が起きたり、水門が開けられて村が洪水に見舞われたり、不審が出来事が続いている。

 村人たちは、森に住むマヌー(エットレ・マンニ)やアントニオ(ウンベルト・オルシーニ)らイタリア人の木樵たちのしわざと考えていた。
 しかし、マヌーの息子ブルーノ(キース・スキナー)は、マドモアゼルが真犯人と気づいていた・・・。


   Review
 「悪っい女やねぇ〜」と私、「怖い女だネ」と夫、「この女、このあともケロッとした顔で生きていくんやろね」と私、「目に見えるようだね」と夫、 ・・・エンド・マークが出た時の私たち夫婦の会話だ。
 大女優ジャンヌ・モローも型なしだけど、それくらい、女教師マドモアゼルはピタッと彼女にハマっている。

 ちょっと下がり気味の口元 (本来ならマイナスになりそうなのに、彼女にかかると妙に蠱惑的だ)、感情を表わさない顔、 それでいて体の奥で情炎がメラメラしているような淫蕩さ、・・・相変わらず上手いなあ、と感嘆する。

 マドモアゼルの過去は分からないけれど、村の男たちの「パリでは普通の女もこの村では女神だ」「女神なんていない」という会話から推測すると、 パリからやって来たこと、村では教師として一目置かれているけれど、都会なら変哲もないただの女 (と村の男たちは見抜いている)、ということくらいだ。


 それでも感情をどこかに置き忘れたような異様な佇まいは、男に深い傷を負わされた過去があるらしいと感じさせる。 その記憶はあまりに痛く、心に深く封印されている、とでもいうような・・・。

 ある夜、マドモアゼルは不注意から失火し、その時村人たちとともに献身的に消火に当たるマヌーの逞しい肉体を目撃する。 そして埋み火のように隠されていた官能の記憶が呼び戻された・・・、そんな感じを受ける。
 2度目の火事 (これは放火)、そしてひそかな水門の開放は、どちらも半裸で救助にあたるマヌーの肉体を覗き見したいためではなかっただろうか・・・。

 しかし徐々に彼女の中で官能のあり方が変わっていき、騒ぎそれ自体が快感になっていったように思える。 家畜の飲み水に毒を入れる、という悪意はそれ以外に考えようがない。
 村人たちの疑念がマヌーに向かうのを承知の上で犯行を重ねたのは、彼への歪んだ欲望の現われだ。彼の息子ブルーノへの教室での執拗な苛めも同様だ。

 彼女が放火に出かける前に、鏡に向かって丁寧に化粧するシーンがある。 かつてパリで男に会いにゆく時の姿が重なり、嫌悪を通り越して、無意識の欲望に囚われたサマは哀れにさえ思えてくる。

 村の女の言葉から想像すると、イタリア男のマヌーは毎年この季節になると、仲間とともに森の木を切りにやって来る季節労働者らしい。

 働き者で気は悪くないけれど、女にはだらしがない。木樵仲間のアントニオの言葉から察すると、いつもそれで問題を起こしているようだ。

 マヌーがやってくると村の若い娘たちは気がそぞろになり、男たちはヤキモキさせられるのだろう。
 火事や池の出水や家畜の飲み水の毒や、とトラブルが起きるたびに、証拠がないのにマヌーが疑われるのは、彼がよそ者だからではない。 村の男たちの嫉妬の表われなのだろう。

 マヌーも自分のそうした立場は分かってる。人を動かすのは理屈ではなく感情だ。アントニオの助言に従ってさっさと村を引き上げればいいのに、とじれったくなる。
 マドモアゼルの悪意と村の男たちの嫉妬、この2つが相乗効果で高まっていく・・・、これはちょっと怖い。

 映画はマヌーに助け舟を出すことはなく、突き放すように終わる。
 映画の底意地の悪さはヨーロッパ特有の冷徹な人間観察の現われでもある。後味がいいとはいわないけれど、それが面白さであるとも思う。
  【◎△×】7

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