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1961年  イタリア/フランス   122分

監督
ミケランジェロ・アントニオーニ

出演
マルチェロ・マストロヤンニ
ジャンヌ・モロー
モニカ・ヴィッティ
ベルンハルト・ヴィッキ
 
   Story
 『情事』(60)、『太陽はひとりぼっち』(62) とともに、ミケランジェロ・アントニオーニ監督が人間の愛と孤独を描いた “愛の不毛” 3部作の一作。 ベルリン国際映画祭で作品賞を受賞した。

 結婚生活10年になる作家ジョヴァンニ(マルチェロ・マストロヤンニ)と妻のリディア(ジャンヌ・モロー)は、病床の旧友トマゾ(ベルンハルト・ヴィッキ)を見舞う。

 かつてトマゾに深く愛されたがジョヴァンニとの結婚を選んだリディアは、トマゾが余命わずかであることを知り、強い悲嘆に襲われる。

 その後、サイン会に臨んだジョヴァンニを会場に残して、リディアは街に彷徨(さまよ)い出る。
 その夜、富豪ゲラルディニ氏のパーティーに出かけた2人は、彼の娘ヴァレンティーナ(モニカ・ヴィッティ)と出会う。


   Review
 “愛の不毛”3部作と銘打たれるとついつい全部見ておきたい気持ちになる。でも本作は私には少々とっつきにくかった。 ストーリーらしいストーリーがなく、心の漂泊を追うだけなのが感情移入しにくかったのかもしれない。

 とはいえ、前半ジャンヌ・モローが彷徨(さまよ)う都会の空間は、 アントニオーニ監督らしい乾いてざらついたモノクロ映像が魅力的だ。

 病床の旧友を見舞った後、リディアは一人でふらりと街に出る。街角に佇む中年男を意味なく振り返ったり、泣きじゃくる幼児をなだめたり、 喧嘩をする若者たちに「ダメ、やめて!」と止めに入ったり・・・。
 リディは人と関わらない孤高の女ではない。それなのに彼女にまとわりつくのは相手から距離を置いた傍観者の匂 い、孤独だ。

 それを痛切に感じさせるのが映像が醸し出す無機質感だ。
 そこに生活臭のない切り絵のような人間たちが配置され、リディアの心の空白が際立つように思える。

 リディアとジョヴァンニの夫婦関係はずいぶん前から破綻していたように思える。
 それが分かるのが、病院の廊下で出会った女に誘惑されかかった、とジョヴァンニが告白した時のリディアの反応だ。・・・ほとんど無関心。無反応。・・・

 告白せずにおれないジョヴァンニはよくいえば善良、悪くいえば凡庸な男だと思う。だから妻の心が自分から離れていることに気づかない。 否、自分の心が妻から離れていることさえ気づいていない。
 後半、2人はある大富豪のガーデン・パーティに出かけるけれど、心はバラバラ、行動もほとんど別々だ。

 ここでとても印象的な映像がある。突如雨が降り出し、集まった人たちは右往左往。 そんな中で、さり気なく出没してはリディアに関心を示す男ロベルトが、彼女を車に誘う。

 夜の通りをゆっくりドライブする2人。激しく降る雨にウインドウが波模様に揺れる。明りに浮かび上がっては黒いシルエットになる2人。 リディアが不思議なほど安らいでいるのが分かる。

 富豪のパーティ場面で特徴的なのは、富裕層の頽廃だ。すべての価値は金、出世によって測られ、精神的なものは 顧みられない。
 たとえば、パーティの主催者ゲラルディニ氏がジョヴァンニを高給で雇うと申し出るのは、彼が人気作家で利用価値があるからだ。

 彼の作品の文化的価値や作家としての才能など何も興味がないだろうし、彼が知名度を失えばあっさり捨ててしまうだろうとも思う。

 そうした物質主義の荒廃を端的に表すのが、ゲラルディニ氏の娘ヴァレンティーナだ。
 いつも捨て犬みたいな寂しさを抱えているのに、愛することも愛されることも拒む。何かに本気で向き合うこともない。 それを強く感じさせるのが、自分が書いてテープに吹き込んだ文章をジョヴァンニに聞かせるシーンだ。

 とてもいい文章だ。ところが、ジョバンニが「もう一度聞きたい」というと、ヴァレンティーナはわざと全部消去してしまう、「ただの遊び」といって。 彼女の虚無の深さに暗澹となる。

 リディアの「表情もしぐさも作り物っぽく見える時がある」というジョヴァンニに向けた言葉は痛烈だ。 ジョヴァンニが本当の自分を生きていないことを彼女は気づいているのだ。
 「もうあなたを愛していない」というリディア、その現実に向き合えないジョヴァンニ、白々と明ける広漠とした庭園が愛の虚しさを際立たせるようだった。
  【◎△×】6

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