【 新作映画 2021年 】 |
Story フランスで実際に起こり、社会の耳目を集めた未解決事件をモチーフにした法廷劇。 妻殺害の容疑をかけられた男の裁判を巡って、シングルマザーのヒロインと敏腕弁護士が無罪を証明するために奔走する様子を描く。 2000年2月、フランス南西部トゥールーズに住むスザンヌという女性が3人の子供たちを残して失踪する。 大学教授の夫ジャック・ヴィギエ(ローラン・リュカ)に殺人容疑がかけられるが、彼には動機がなく、遺体も発見されていない。 ジャックがヒッチコック・マニアだったことからメディアがセンセーショナルな報道をする中、2009年の第一審は無罪となる。 しかし検察が控訴、2010年、第二審が始まる。 ジャックの娘と親しく、無罪を信じる料理人のシングルマザー、ノラ(マリーナ・フォイス)は、 敏腕弁護士デュポン=モレッティ(オリヴィエ・グルメ)に弁護を依頼する。 2人は二人三脚で、一審には間に合わなかった250時間もの電話の通話記録を分析し、調査に乗り出すが・・・。 Review 映画を見ている間、いくつもの「?」が頭の中を渦巻いた。 *「妻が失踪したからといって、遺体が発見されたわけでもなく、確たる動機も証拠もない夫になぜ殺人の容疑がかけられたのか」 *「なぜ失踪事件から10年も経ってから裁判が行われるのか」 *「250時間にものぼる通話記録は誰が、いつ、どのようにして傍受したのか」 *「なぜこの記録が裁判資料として捜査側が精査しなかったのか」 ・・・などなどだ。これらはどうやらフランスの司法制度の問題が大きいらしい。監督の映画製作の目的の1つにこの司法システムに対する問題提起があるようだ。 中でも、主人公ノラはなぜこれほどまでに裁判にのめりこむのだろう・・・。 疑問だらけなのに気が付けば映画の迫力に押されて見入ってしまっている。 ノラについては後に触れるとして、映画を見終わってつくづく思うのは、よくいわれる “善良な市民” の善意の怖さということだった。 悪人の悪意は分かり易い。しかし善良な市民の場合、善意であるだけにその中に含まれる悪や誤りに自覚がなく、周囲も気づかない。 あるいは気づいても指摘しにくい。そんな危うさがある。 興味深かったのは、ノラを画面に映しだす撮影方法の変化だった。 はじめはレストランの厨房で忙しく働く姿や自宅で息子とくつろいでテレビを見る様子など、彼女の生活の全体像が見える。 ところが通信記録の書き起こしを始めるようになると、パソコンや壁に張ったメモ書き、厨房で料理が出来たことを知らせるベル、それをポンと叩く手、 などなどアップの映像が多くなる。まるで視野狭窄に陥ったようだ。 ノラ自身ヘッドホンをつけ自分だけの世界にこもり、その様子は客観的な視点を失っていくかのようだ。 通信記録を細かにチェック、分析していくうちに、ノラは失踪したスザンヌの愛人デュランデ(フィリップ・ウシャン)に疑惑の目を向けるようになる。 夫ヴィギエに嫌疑がかかるような電話を知人にかけまくり(それによって夫が怪しいという風評が広まる)、 ヴィギエ家の元ベビーシッター(インディア・ヘア)と共謀して明らかな嘘もついている。 確かに法廷に出廷した彼はふてぶてしく口達者で、いかにも胡散臭い。本作をミステリー映画として見た時、ある種のどんでん返しともいえるこの展開はとても面白い。 しかし彼にしてもスザンヌを殺す動機も証拠もないのは夫と同じなのだ。 にもかかわらず、デュランデこそ真犯人に違いない、とノラは確信する。そしてそれにブレーキをかけるのが、弁護士デュポン=モレッティだ。 彼はヴィギエの無罪を勝ち取るのが自分の仕事であり、真犯人を探すことではない、という。そして、これはデュランデを裁くための裁判ではない、とも。 彼のブレのない客観的かつ公正な視点にハッとさせられる。 たしかに、Aでないなら一体誰が真犯人だ、Bに違いない、と代わりを引っ張り出すことで安心する、というのはよくある心理の陥穽だ。 こうして1つの冤罪を晴らすために、新たな冤罪を生み出すことも起こりうる。 名優オリヴィエ・グルメの懐ろ深い演技が見事だ。 “ノラがなぜ強迫観念的にこの事件にのめり込むのか” という最初の疑問に戻ると、本作ではみな実在の人物が実名で登場しており、ノラだけが架空の人物なのだそうだ。 つまりノラは特定された一人の人物ではなく、この事件に対して形成され、積み重ねられた世論がノラという人物像として描かれているのではないだろうか。 一人一人が「自分は正しい」と信じ、その確信のもとに正義を振りかざし、他者を断罪する。 SNSで頻発するバッシングなどインターネット環境で暴走する世論の危うさは、これまでになく強まっている。本作はそうしたことへ警鐘を鳴らしているように思えた。 【◎〇△×】7 |